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書きながら考えているので考えたことを書いてるんじゃなくて書いたものが考えたことです。もしかするとなにも考えていないかもしれない。

言葉からひどく遠ざかった生活をしていた。

言葉というものは形にしてみなければどういうものが出てくるかわからないもので、それを目撃するために毎日せっせとキーボードを叩いていたのだけれど、昨年九月の沖縄旅行から帰ってきた途端、ぱったりとやめてしまった。なにを考えたであるとかなにを感じたようであるとかなにをどうしましたであるとか、毎日せっせと Evernote に送りつけていたわけである。それをやめた。読書はずいぶんと前からしていない。

そのメモ書きというか日々の断片を送りつけるのをやめたのはとても残念なことで、できればまた再開すべきなのではないかと感じている。それを再開することによって生活における実利が発生するわけではない。ただ言葉の世界に触れていることと、それによる自らの変化を実感したいのだ。


文字に置き換えられたものは、もうひとりの自分のように思える。それは俺であるけれども、他者としか感じられない。いま生きている俺と並行して存在していて、しかし未来にも同じ姿で存在をする。思い出と同じで読まれなければ存在することはできないが、読まれたならばいつでも同じ姿で存在をする。しかし書かれることが途絶えたなら、その先は死んだも同然だ。

飯を食ったり排泄をしたり寝たり起きたり酒を飲んだりゲームをしたりやりたくもない仕事をしたり笑ったりなにも考えていなかったりして生きている俺とは違って、書かれた文章は点だ。どうやったって、途切れなくすべてを描写することはできない。そのなかでなにを記すべきなのか、俺にはよくわからない。

文字に限らずともそうだ。言語化され口から発せられたそれでさえも、この俺とはまったく別のもののように感じる。だから嘘をつくことはそれほど悪いことだとは思わない。どうしたってこの俺とはちがったものが出てくるのは当たり前なのだ。そしてそれも含めて俺なのであって、またそれを認識する主体も、この俺から脱することはできない。つまり自分とか世界というものがどういうものであるかなんてこの先一生わかるはずもなくて、とりあえず目についたものがそれだと思うしかない。ただ、視野を広げたり、視座を増やしたりはしていきたいと思う。