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書きながら考えているので考えたことを書いてるんじゃなくて書いたものが考えたことです。もしかするとなにも考えていないかもしれない。

ブログを書いていないあいだに映画は何本か観たし本も何冊か読んだし生きているのだから目にしたもの耳にしたものはたくさんあってただの素通りではなかったと言えるのだけど文章というのはまさにその渦中にいるときにしか機能しないというわけでもないがしかし瑞々しさという面ではやはりはっきりと劣るものなんじゃないかと思うわけで一ヶ月も前に消費したものについてそしてそれがいまとなっては頭の中に居場所がほとんどなくどこからか調達してこなければならないものについての感想を書くというのはつまらないと思った。

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』見てきた。

※内容に触れています。



テレビシリーズ→旧劇場版→序・破と二週間くらいかけて見てから、公開終了ぎりぎりになって見てきた。

事前知識はまったくといっていいほどなかったので*1シンジと一緒に「どういうことなの! 説明してよ!」という気持ちで見てました。破まではうまくいきそうな感じだったのに。



破までは幸福の兆しが見えていた。それぞれがテレビシリーズのときとは違い、つながり合おうとする心情が見えて、それはとても温かく、さらに日常の描写が多く挿入されたこともあって「もしかすると、今度はこれらを守ることができるのかもしれない」と思ったんだけども、Qを見たら「あ、やっぱりこれはエヴァなんだ」っていう。


目覚めてみたら周りの人間が変わり果て、自分に対する目線が責めるものでしかなくなっているあの状況はとてもつらい。とくにミサトさんは、破の最後でシンジを応援、ある意味ではけしかけるような言葉を投げかけたわけだけども、いざ目を覚ましたらあの態度。「もうあなたはエヴァーに乗らないで」とか急に言われても事情がわからないんでもっとなんか、ほら、あるでしょ! ていうか周りのみんなは状況のわかっていないシンジに対してもっとわかりやすく説明すべきなんじゃないですか。シンジが目覚めたときのために彼に事情を理解させるためのオペレーションとか用意しとくべきじゃないんですか。シンジが暴走しやすいことはわかってるんだし今度暴走したらフォース・インパクト起こるんでしょ? 人類滅亡するんでしょ? ちがうの? 説明してよ! ミサトさん


しかし、あの冷たい態度は人類の存亡が肩にかかっている職務としてのペルソナであるだろうし、現に首輪を起動させるためのスイッチを押せなかった。あれはまだシンジに対するミサト個人の思いが残っていると捉えたい。グラサンで目が見えないのがまた考えてることわかんない感じでよかったです。

そしてアスカ。冒頭、ピンチに陥った瞬間シンジに助けを求める場面と、ラストの、うずくまって動こうとしないシンジの手を取る場面などを見るにつけ、アスカも完全にシンジを見限っているわけではないことがうかがえる。それは完結において最悪を回避するためのよすがとなるんじゃないでしょうか。



シンジに対する周りの扱いひどい、っていうのもそうだけど、シンジもだいぶひどかった。テレビ版を見ていたときよりもイライラさせられた気がする。何度か「わからずや!」などと言って周りが間違っていると決めつけて我を通す場面があって、それはある意味では自分の意志を貫いてるとも言えるけど、共感を起こしづらい。
破のラストで、シンジは「綾波を助けるためなら、自分も世界もどうなったっていい」と宣言をした。それがサード・インパクトに繋がってしまったわけだけど、いざその変わり様を見せられたら「僕のせいじゃない」とかのたまうのはあんまりじゃないですか。


Qのシンジをメタ的に見てみると、これって「14歳のまま成長していない28歳」ということになる。そのように見てみると、自分の選択した行動が周囲の不幸を招く結果となり、またそれが自らの罪となった状況に向き合えない子供のような大人を描いているふうに取れる。今回のシンジへの共感のしにくさは、「もう大人なんだから自分の行動には責任を取れよ」ということなのかもしれない。大人ってつらい。
周りがみんな大人となった*2のに、14歳のままなにも成長していないボク。そこには同情の余地があまり残されていない。

アスカに手を引かれるのもそうだけど、破でミサトさんと手をつないでリリスを見に行く場面もかなり印象的だった。綾波にしたって、シンジのためにゲンドウとの食事会を開こうとしてくれた。旧とは違って、新劇では、シンジには手を差し伸べてくれる人間がいる。だからそのぶん、シンジのダメさが際立ってくる。女性に手を引かれることでしか歩けない、大人になりきれない男。なんとも情けない話だ。Qにおいてヴィラの面々がシンジに冷たいのは「ガキの相手をする暇はない」ということかなぁ、その態度どうなの、とは思うけどしかし大人の社会は厳しいものだ、とかあんまり悟ったようなことは言いたくないがしかしそういう冷ややかな社会の表現なのではないでしょうか。

テレビシリーズ→旧劇と、改めて見返した時に、「シンジくんが塞ぎこむのも当然じゃないか。中学生の男の子が親からはあの扱いだし人類の命運握らされたりもうなんか世界とかどうでもいいです」って感じだったんだけど、今回にいたっては「暴走して選択した結果にショック受けてうずくまってる28歳の男」として見てしまったのでなんかもうあかん。たいへん身につまされる話であります。いや、シンジが14歳から成長してないのはしょうがないんだけど。
ていうかシンジが14年間初号機の中にひきこもったのはなんでなんだろう。その理由がシンジの内にあったのか、それとも外的な理由、不可避的に閉じ込められていたのかどうかで見方が変わってくる。



そういえば、破においてシンジがゲンドウに「エヴァにはもう乗らない」と宣言したとき、ゲンドウは「大人になれ」と声をかけていた。さらに今作では、アスカのシンジに対する呼び名が「バカシンジ」から「ガキシンジ」に変わっている。

新劇場版では、シンジは自分で選択をする場面が多くなった。それが悪い方向に向かうもので、ただのガキのわがままであったとしても、大人のいうことにただ従うだけではない。さらに、命令されたことしか行おうとしない綾波も、アスカから「あんたはどうしたいの!」と言われ、自我のうかがえる行動を起こす。テレビシリーズや旧劇場版からは一歩進んだのかもしれない。旧のテーマが「外に出ろ、他人と生きろ」だとしたら新劇のテーマは「大人になれ」だと思う。

「大人になれ」とは、つまり、自分以外の人たちとの関係性のなかで自分がどうしたいかをはっきりとさせつつ、選択した行動に対して責任を取れ、ということでしょうか。

*1:アスカが眼帯してることくらいしか知らなかった。

*2:人格的な成長はあまりしていないかもしれないけど。

 今年も終わるわけですが、なんですか、べつに書くことないな。

 こういうときに一年を振り返るのが定番なんだろうけれども、頭をいくら振ったところで自分のうしろ姿は見えないわけで、であれば自分のたどってきた道や足跡などを検分して今後たどるべきルートを定めるのがよいのだろうか。しかし二十八年生きてきて実感しているのは、年の終わり、あるいは始めだからという理由でなにやら目標を定めたりしても、結局のところそれは次の終わりと始めにしか思い出さないということである。へたをすると「い、一歩も進んでいない! なにかが間違っている!」といった感じでもと来た道を引き返しかねない。

 ものごとに区切りを設けるというのは人類の偉大な発明であるとは思うのだけれども、それを所詮他人の定めたものとして有効活用できないこの体たらく。もういいからみんなこたつに入ってみかんでも食べようよ。寝ちゃったら毛布かけてあげるからさ。